松本人志報道に見られる「先走る世論」 多数派によって物事が決まってしまう危険性【仲正昌樹】
四月に入って、国会での弾劾裁判によって、SNS(ツイッター、ブログ、ASKfm)で殺人事件の遺族を侮辱した、ベテラン裁判官の罷免が決定したが、このことは、プロである裁判官でさえ、SNSの世論をやたらに意識し、SNSで多数派になろうとする欲望に突き動かされていることを暗示しているように見える。裁判官が、ネット世論での「正しさ」を前提に判断するようになったら、司法の独立の意味がなくなる。それどころか、司法が「多数派の専制」を代行する場になってしまう恐れさえある。
少なくとも、ある人の人生を変えたり、団体を消滅させるようなペナルティを課したりする決定は、世論から離れたところでなされる仕組みが必要だ。誰かにペナルティを課すのであれば、それを課す決定をした人間(たち)に、判断が誤りだと判明した場合、何らかの責任を取らせるようにする仕組みだ。
松本人志氏のような芸能人や著名なビジネスマン、芸術家など、世間一般での評価が契約に影響を与える職種の場合、スポンサーとなる企業が、ネットでの声に忖度して、さっさと切り捨てるので、それで“答え”が出されたような形になる。企業とすれば、自分の利益を考えて判断しただけだろう。自由主義経済の下では、企業の“経営上の判断”に公権力は干渉しにくい。
しかし、いくつかの主要企業の連鎖的な判断で、その人の活動の場が奪われ、個人としての発信力が減り、一ネット民と変わらなくなると、出てしまった“答え”を覆すのは難しくなる。企業の思惑によって、表に出さずに暗黙の内に何となく処理されてしまうことも多いだろうが、そうなると、事情を知らない普通の人には、何かヤバいことをした有名人が自然と消えていった、まあ、そういう人だったのだろう、という印象しか残らないかもしれない。
ネット世論とGAFAのような巨大企業の相乗作用によって、「物語」が作られ、“真実”が決まっていくというのは、SFとかミステリーにありそうな悪夢の設定だが、それが現実になりつつある。松本人志氏が実際に加害者かどうか、本当の真実に関心を持っている人はごく少数だろう。関心があるつもりの人もほとんどは、マスコミとネットとエンタメ業界が紡ぎ出す「物語」の新たな展開に関心を持っているだけである。時折、生じる「キャンセル」によって、注目を浴びるスターが入れ替わる社会が、人々が対等にコミュニケーションできる民主的な社会だろうか。
有名人だけの問題だったと思っていたら、一般のユーザーも同じ目に遭うかもしれない。リアル社会ではほとんど無名のSNSのユーザーが、プラットフォーム企業などの都合でキャンセルどころか、デリートされても、誰も気付かない。
文:仲正昌樹